地下水のヒ素はなぜ溶け出すのか — 酸化還元と熊本の地下水を PHREEQC で読む|地下水科学入門 #13

熊本の一部の地下水では、ヒ素(As)が飲料水基準を超えて天然に溶け出す。鍵は酸化還元(レドックス)である。電子受容体が順に使われる『レドックスシークエンス』、pe/Eh で変わるヒ素の化学種、そして鉄酸化物の還元的溶解によるヒ素の放出を、Hossain et al. (2016) に沿って PHREEQC で再現する。
水文学
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ヒ素
酸化還元
作者

DeepFlows

公開

2026年7月28日

はじめに:金属臭のその先へ

#11 で、井戸水の金属臭の正体は、還元的な地下水に溶けた鉄(Fe²⁺)だと触れた。汲み上げて空気に触れると酸化し、赤褐色の水酸化鉄へと姿を変える——あの現象である。そして「こうした微量成分の挙動は、酸化還元(レドックス)に支配される」と予告した。本記事は、その約束を果たす回である。

主役はヒ素(As)。ヒ素は毒性が高く、飲料水基準は 10 µg/L(WHO・日本とも)と厳しい。そして熊本地域では、このヒ素が人為汚染ではなく “天然に”、基準を超えて地下水に溶け出す場所がある。Hossain et al. (2016) は、この地域で As が 0.1–60.6 µg/L に分布し、熊本平野の停滞域で井戸の 36% が基準 10 µg/L を超えることを示した。

なぜ天然でヒ素が溶け出すのか。答えは、#12 のフッ素と同じく「時間をかけた水–岩石反応」にある。ただし今回、動かすのは pH ではなく電子である。本記事では、この機構を PHREEQC で三段構えに再現する——①レドックスシークエンス②ヒ素の化学種③鉄酸化物からのヒ素の放出


#12 と同じ舞台、違う主役

驚くことに、高ヒ素地下水の”顔つき”は、#12 の高フッ素水とよく似ている。Hossain et al. (2016) が高ヒ素域(39 試料)で報告した特徴はこうである。

  • 高pH(平均 7.97、範囲 7.14–9.45)
  • 還元的(ORP 平均 +42 mV、最小 −283 mV/溶存酸素 DO が低い)
  • 低NO₃(多くが検出限界以下)・高い溶存鉄(Fe 平均 511 µg/L、最大 5283 µg/L)
  • 滞留時間の長い停滞域(熊本平野中央部)に集中

そして堆積物コアの分析から、ヒ素は鉄・アルミの酸化物/水酸化物に吸着して存在し(As は Fe・Al と強く相関、Mn とは無相関)、その供給源は地質由来(geogenic)であることが分かった。

つまり舞台は #12 と同じ「高pH・停滞域」。しかし #12 では高pHがフッ素を脱着させたのに対し、#13 では還元(電子の授受)が鉄酸化物ごとヒ素を溶かす。主役がレドックスに替わるのである。


レドックスシークエンス — 電子受容体は順番に使われる

地下水が「還元的になる」とは、具体的に何が起きることか。鍵は、有機物(枯れた植物や土壌有機物)を微生物が分解するとき、電子の受け手(電子受容体)を”エネルギー効率のよい順”に使い切っていくことである。この順序をレドックスシークエンス(酸化還元シークエンス)と呼ぶ。

PHREEQC で、酸素を含む涵養水に有機物(CH₂O)を少しずつ加える計算をすると、このシークエンスがそのまま再現できる。

SOLUTION 1  Oxic recharge water        # O2・NO3・SO4 を含む酸化的な水
    pe 14;  O(0) 0.5;  N(5) 0.5;  S(6) 1.0 ...
EQUILIBRIUM_PHASES 1
    Pyrolusite  0.0  5e-5              # MnO2(電子受容体)
    Fe(OH)3(a)  0.0  2e-3              # 水酸化鉄(電子受容体 & Fe源)
REACTION 1
    CH2O 1.0;  0 0.1 ... 3.0 mmol      # 有機物を段階的に添加(還元剤)

結果を 図 1 に示す。

図 1: レドックスシークエンス。上:有機物(CH₂O)の添加が進むと pe(電子の豊富さ)が段階的に下がる。下:電子受容体が O₂ → NO₃⁻ → MnO₂ → Fe(OH)₃ → SO₄²⁻ の順に消費され、Fe²⁺ や H₂S が現れる。赤い帯は鉄還元ゾーン=ヒ素が放出される段。

読み取れる順序は明快である。

  1. まず O₂(酸素呼吸)が消費される。
  2. 次に NO₃⁻(脱窒)が消費される。
  3. O₂ と NO₃⁻ が尽きると pe が急落し、MnO₂ → Fe(OH)₃ の還元が始まる(Fe²⁺ が急増)。
  4. さらに進むと SO₄²⁻ が還元され、H₂S が生じる。

このシークエンスこそが、高ヒ素水の特徴を説明する。ヒ素が放出されるのは、赤い帯——鉄酸化物 Fe(OH)₃ が溶ける段である。そして重要なのは、NO₃⁻ は鉄よりも先に消費されるという順序である。だから、まだ NO₃⁻ が残っている水では鉄還元に達しておらず、ヒ素も出ない。論文が報告した「高ヒ素 = 低NO₃」という関係は、このシークエンスの順序そのものなのである。

ヒントPHREEQC の使い方はこちらで

レドックスシークエンスを PHREEQC で計算する手順は PHREEQC をゼロから始める #13:酸化還元シークエンス で、脱窒の診断は #14:硝酸塩汚染の地下水診断 で、手を動かして解説している。本記事ではその結果を「熊本のヒ素」という現場に当てて読む。


ヒ素はなぜ動くのか — 鉄酸化物の還元的溶解

堆積物中のヒ素は、鉄酸化物(水酸化鉄, Hfo)の表面に吸着して、いわば”固定”されている。酸化的な環境では、この鉄酸化物は安定で、ヒ素も表面にとどまる。

ところが、レドックスシークエンスが鉄還元の段に達すると、事情が変わる。Fe(OH)₃ が電子を受け取って溶け出す(還元的溶解)と、その表面にいたヒ素も行き場を失って水へ放たれる。PHREEQC で、鉄酸化物に吸着したヒ素(SURFACE/Hfo)を還元していくと、この放出が再現できる。

図 2: 鉄酸化物の還元的溶解によるヒ素の放出(概念デモ)。初期は As が水酸化鉄(Hfo)に吸着し、溶存 As は基準以下(青破線=残存する Fe(OH)₃、赤=溶存 As)。有機物添加で Fe(OH)₃ が還元的に溶けると、吸着していた As が放出され、溶存 As は基準 10 µg/L を超えて上昇する。

図 2 は、まさに「毒が混入した」のではなく、もともと鉄酸化物に固定されていたヒ素が、鉄ごと溶け出すという描像を示している。Fe(OH)₃ が減る(青)のと入れ替わりに、溶存ヒ素(赤)が立ち上がる——この鏡像関係が、ヒ素動員の核心である。

ノート正直な限界:これは「概念デモ」である

この収着・脱着の計算(Dzombak–Morel の Hfo モデル)は、比表面積やサイト密度に既定値を用いている。実際の熊本の堆積物に固有の値ではないため、具体的な濃度は主張しない。あくまで「還元的溶解でヒ素が放出される」という原理の可視化である。Hossain et al. (2016) 自身も、この脱着過程は定性的に論じている。


ヒ素の”顔” — 砒酸から亜砒酸へ

ヒ素は、ただ「溶ける/溶けない」だけではない。レドックスの状態によって化学種(顔)を変える。酸化的な水では砒酸 As(V)(HAsO₄²⁻ など)、還元的な水では亜砒酸 As(III)(H₃AsO₃)が優勢になる。一般に亜砒酸のほうが移動しやすく、毒性も高いとされる。

ここで、現場の水質計が測る ORP(酸化還元電位 Eh) と、PHREEQC が使う pe の関係を押さえておきたい。

ノートpe と ORP(Eh)— 電子のものさし
  • pe は電子の授受のしやすさを表す無次元数(pe = −log{e⁻})。pe が大きい=酸化的小さい=還元的。pH が「プロトン(H⁺)の物差し」なら、pe は「電子(e⁻)の物差し」である。
  • 現場の ORP(Eh, mV) と pe は一対一で対応する。25℃では \(E_h(\mathrm{mV}) \approx 59.2 \times \mathrm{pe}\)(pe = 1 が約 +59 mV)。PHREEQC は pe で計算し、現場は Eh を測る——この式で行き来できる。
  • ただし、Pt 電極が示す ORP は多くの酸化還元対の混成電位であり、個々の対(As(V)/As(III)・Fe(III)/Fe(II) など)が互いに平衡とは限らない。測定 ORP は目安として読むのが正しい。

pH = 8 に固定し、pe を酸化側から還元側へ振ってヒ素と鉄の化学種を計算したのが 図 3 である。

図 3: ヒ素と鉄の化学種の割合(縦軸=還元型の分率)を pe(下軸)と Eh(上軸)に対して示す。Fe(II) は pe ≈ +1.7 で、As(III)(亜砒酸)は pe ≈ −1(Eh ≈ −59 mV)で優勢になる。鉄が先に還元され、続いてヒ素が亜砒酸へ移る。

読み取れることは二つある。

  • 鉄が先、ヒ素が後。Fe(III)→Fe(II) は pe ≈ +1.7 で、As(V)→As(III) は pe ≈ −1 で交代する。これはレドックスシークエンス(図 1)で鉄還元が硫酸還元より先に来る順序と整合する。
  • 還元が進むほど亜砒酸 As(III) が優勢になる。論文が Eh–pH 図で示した「還元的環境で亜砒酸」という描像を、公開データから再現できた。

硫黄の証言 — δ³⁴S が語る微生物の営み

レドックスシークエンスの最下段に近いのが硫酸還元である。Hossain et al. (2016) は、硫酸イオンの硫黄同位体比 δ³⁴S_SO₄ が 8.3–57.6‰ という広い幅を持つことを見いだした。これは、微生物が硫酸を還元する際に軽い硫黄(³²S)を優先的に使うため、残った硫酸に重い硫黄(³⁴S)が濃縮する——という同位体分別の証拠である。つまり、この地下水では硫黄がレドックス循環を受けている

さらに、生じた硫化物イオンと溶存鉄(II)が出会えば、ヒ素は硫化物として共沈し、逆に水から除かれる可能性もある。ただし論文は、この共沈の直接証拠は得られていないとし、あくまで示唆にとどめている。本記事も同じ姿勢で、「そういう可能性がある」という所までとする。

ヒント硫黄のレドックスもPHREEQCで

硫化物の酸化(黄鉄鉱 → 硫酸・酸性水)と、その逆の世界は PHREEQC をゼロから始める #6:黄鉄鉱の酸化とAMD で扱っている。δ³⁴S が語る硫黄循環の舞台裏である。


高ヒ素の三条件

ここまでを束ねると、Hossain et al. (2016) が結論づけた高ヒ素地下水の三条件が、機構として腑に落ちる。

  1. 高pH — 鉄酸化物表面の正電荷を下げ、ヒ素(陰イオン)を脱着しやすくする(#12 のフッ素と共通)。
  2. 還元的(anoxic) — レドックスシークエンスが鉄還元の段に達し、鉄酸化物ごとヒ素を溶かす。
  3. 新しい堆積物での停滞 — 有明粘土層のような地質的に新しい(堆積してまもない)地層は、堆積後に地下水で十分に洗い流されておらず、堆積当時のヒ素を鉄酸化物に吸着したまま残している。そこに地下水が停滞し、長い滞留時間をかけて反応が進む。

ここで「新しい」は地層の地質年代(堆積してまもない)を指し、その中を流れる地下水の滞留時間が長い=“古い”こととは別物である点に注意したい。①②は「時間をかけた水」の性質、③は「まだ洗い流されていない新しい地層」という器の条件——いずれも、水が長くとどまる停滞域でこそ重なる。ヒ素濃度もまた、フッ素と同じく、地下水がどれだけ長く旅をし、どれだけ還元が進んだかの記録なのである。


まとめ

  • 熊本の一部の地下水では、人為汚染ではなく天然の還元反応で、ヒ素が飲料水基準を超えて溶け出す。
  • 機構は レドックスシークエンスで理解できる。有機物の分解が O₂ → NO₃ → Mn → Fe → SO₄ の順に受容体を消費し、鉄酸化物が溶ける段でヒ素が放出される。だから 高ヒ素 = 低NO₃ である。
  • ヒ素は pe(≒Eh)に応じて砒酸 → 亜砒酸へ顔を変え、還元的なほど移動しやすい亜砒酸が優勢になる。
  • 高pH・還元・停滞(まだ洗い流されていない新しい地層)の三条件が重なる停滞域に、高ヒ素水は集中する。
  • これら「順序・化学種・放出」は、いずれも PHREEQC で再現できる

毒の混入ではなく、時間と還元が動かす天然のヒ素。フッ素(#12)と同じく、データと地球化学で読み解ける現象である。

ノート次回予告 — #14 同位体で読む地下水の”年齢”

#12・#13 と繰り返し現れた「滞留時間の長い停滞域」。では、その”年齢”はどう測るのか。次回は安定同位体(δ¹⁸O・δD)と天水線で涵養源を、トリチウム・⁸⁵Kr で地下水の年齢を読む。熊本や霧島のデータを題材に、「水の時間」を測る道具を扱う。


参考文献

  • Hossain, S., Hosono, T., Ide, K., Matsunaga, M., Shimada, J. (2016) Redox processes and occurrence of arsenic in a volcanic aquifer system of Kumamoto Area, Japan. Environmental Earth Sciences, 75:740.
  • Appelo, C.A.J. & Postma, D. (2005) Geochemistry, Groundwater and Pollution, 2nd ed. Balkema.
  • Smedley, P.L. & Kinniburgh, D.G. (2002) A review of the source, behaviour and distribution of arsenic in natural waters. Applied Geochemistry, 17, 517–568.
  • Dzombak, D.A. & Morel, F.M.M. (1990) Surface Complexation Modeling: Hydrous Ferric Oxide. Wiley.
  • Parkhurst, D.L. & Appelo, C.A.J. (2013) Description of input and examples for PHREEQC version 3. U.S. Geological Survey Techniques and Methods, book 6, chap. A43.
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