はじめに:金属臭のその先へ
#11 で、井戸水の金属臭の正体は、還元的な地下水に溶けた鉄(Fe²⁺)だと触れた。汲み上げて空気に触れると酸化し、赤褐色の水酸化鉄へと姿を変える——あの現象である。そして「こうした微量成分の挙動は、酸化還元(レドックス)に支配される」と予告した。本記事は、その約束を果たす回である。
主役はヒ素(As)。ヒ素は毒性が高く、飲料水基準は 10 µg/L(WHO・日本とも)と厳しい。そして熊本地域では、このヒ素が人為汚染ではなく “天然に”、基準を超えて地下水に溶け出す場所がある。Hossain et al. (2016) は、この地域で As が 0.1–60.6 µg/L に分布し、熊本平野の停滞域で井戸の 36% が基準 10 µg/L を超えることを示した。
なぜ天然でヒ素が溶け出すのか。答えは、#12 のフッ素と同じく「時間をかけた水–岩石反応」にある。ただし今回、動かすのは pH ではなく電子である。本記事では、この機構を PHREEQC で三段構えに再現する——①レドックスシークエンス、②ヒ素の化学種、③鉄酸化物からのヒ素の放出。
#12 と同じ舞台、違う主役
驚くことに、高ヒ素地下水の”顔つき”は、#12 の高フッ素水とよく似ている。Hossain et al. (2016) が高ヒ素域(39 試料)で報告した特徴はこうである。
- 高pH(平均 7.97、範囲 7.14–9.45)
- 還元的(ORP 平均 +42 mV、最小 −283 mV/溶存酸素 DO が低い)
- 低NO₃(多くが検出限界以下)・高い溶存鉄(Fe 平均 511 µg/L、最大 5283 µg/L)
- 滞留時間の長い停滞域(熊本平野中央部)に集中
そして堆積物コアの分析から、ヒ素は鉄・アルミの酸化物/水酸化物に吸着して存在し(As は Fe・Al と強く相関、Mn とは無相関)、その供給源は地質由来(geogenic)であることが分かった。
つまり舞台は #12 と同じ「高pH・停滞域」。しかし #12 では高pHがフッ素を脱着させたのに対し、#13 では還元(電子の授受)が鉄酸化物ごとヒ素を溶かす。主役がレドックスに替わるのである。
レドックスシークエンス — 電子受容体は順番に使われる
地下水が「還元的になる」とは、具体的に何が起きることか。鍵は、有機物(枯れた植物や土壌有機物)を微生物が分解するとき、電子の受け手(電子受容体)を”エネルギー効率のよい順”に使い切っていくことである。この順序をレドックスシークエンス(酸化還元シークエンス)と呼ぶ。
PHREEQC で、酸素を含む涵養水に有機物(CH₂O)を少しずつ加える計算をすると、このシークエンスがそのまま再現できる。
SOLUTION 1 Oxic recharge water # O2・NO3・SO4 を含む酸化的な水
pe 14; O(0) 0.5; N(5) 0.5; S(6) 1.0 ...
EQUILIBRIUM_PHASES 1
Pyrolusite 0.0 5e-5 # MnO2(電子受容体)
Fe(OH)3(a) 0.0 2e-3 # 水酸化鉄(電子受容体 & Fe源)
REACTION 1
CH2O 1.0; 0 0.1 ... 3.0 mmol # 有機物を段階的に添加(還元剤)
結果を 図 1 に示す。
読み取れる順序は明快である。
- まず O₂(酸素呼吸)が消費される。
- 次に NO₃⁻(脱窒)が消費される。
- O₂ と NO₃⁻ が尽きると pe が急落し、MnO₂ → Fe(OH)₃ の還元が始まる(Fe²⁺ が急増)。
- さらに進むと SO₄²⁻ が還元され、H₂S が生じる。
このシークエンスこそが、高ヒ素水の特徴を説明する。ヒ素が放出されるのは、赤い帯——鉄酸化物 Fe(OH)₃ が溶ける段である。そして重要なのは、NO₃⁻ は鉄よりも先に消費されるという順序である。だから、まだ NO₃⁻ が残っている水では鉄還元に達しておらず、ヒ素も出ない。論文が報告した「高ヒ素 = 低NO₃」という関係は、このシークエンスの順序そのものなのである。
レドックスシークエンスを PHREEQC で計算する手順は PHREEQC をゼロから始める #13:酸化還元シークエンス で、脱窒の診断は #14:硝酸塩汚染の地下水診断 で、手を動かして解説している。本記事ではその結果を「熊本のヒ素」という現場に当てて読む。
ヒ素はなぜ動くのか — 鉄酸化物の還元的溶解
堆積物中のヒ素は、鉄酸化物(水酸化鉄, Hfo)の表面に吸着して、いわば”固定”されている。酸化的な環境では、この鉄酸化物は安定で、ヒ素も表面にとどまる。
ところが、レドックスシークエンスが鉄還元の段に達すると、事情が変わる。Fe(OH)₃ が電子を受け取って溶け出す(還元的溶解)と、その表面にいたヒ素も行き場を失って水へ放たれる。PHREEQC で、鉄酸化物に吸着したヒ素(SURFACE/Hfo)を還元していくと、この放出が再現できる。
図 2 は、まさに「毒が混入した」のではなく、もともと鉄酸化物に固定されていたヒ素が、鉄ごと溶け出すという描像を示している。Fe(OH)₃ が減る(青)のと入れ替わりに、溶存ヒ素(赤)が立ち上がる——この鏡像関係が、ヒ素動員の核心である。
この収着・脱着の計算(Dzombak–Morel の Hfo モデル)は、比表面積やサイト密度に既定値を用いている。実際の熊本の堆積物に固有の値ではないため、具体的な濃度は主張しない。あくまで「還元的溶解でヒ素が放出される」という原理の可視化である。Hossain et al. (2016) 自身も、この脱着過程は定性的に論じている。
ヒ素の”顔” — 砒酸から亜砒酸へ
ヒ素は、ただ「溶ける/溶けない」だけではない。レドックスの状態によって化学種(顔)を変える。酸化的な水では砒酸 As(V)(HAsO₄²⁻ など)、還元的な水では亜砒酸 As(III)(H₃AsO₃)が優勢になる。一般に亜砒酸のほうが移動しやすく、毒性も高いとされる。
ここで、現場の水質計が測る ORP(酸化還元電位 Eh) と、PHREEQC が使う pe の関係を押さえておきたい。
- pe は電子の授受のしやすさを表す無次元数(
pe = −log{e⁻})。pe が大きい=酸化的、小さい=還元的。pH が「プロトン(H⁺)の物差し」なら、pe は「電子(e⁻)の物差し」である。 - 現場の ORP(Eh, mV) と pe は一対一で対応する。25℃では \(E_h(\mathrm{mV}) \approx 59.2 \times \mathrm{pe}\)(pe = 1 が約 +59 mV)。PHREEQC は pe で計算し、現場は Eh を測る——この式で行き来できる。
- ただし、Pt 電極が示す ORP は多くの酸化還元対の混成電位であり、個々の対(As(V)/As(III)・Fe(III)/Fe(II) など)が互いに平衡とは限らない。測定 ORP は目安として読むのが正しい。
pH = 8 に固定し、pe を酸化側から還元側へ振ってヒ素と鉄の化学種を計算したのが 図 3 である。
読み取れることは二つある。
- 鉄が先、ヒ素が後。Fe(III)→Fe(II) は pe ≈ +1.7 で、As(V)→As(III) は pe ≈ −1 で交代する。これはレドックスシークエンス(図 1)で鉄還元が硫酸還元より先に来る順序と整合する。
- 還元が進むほど亜砒酸 As(III) が優勢になる。論文が Eh–pH 図で示した「還元的環境で亜砒酸」という描像を、公開データから再現できた。
硫黄の証言 — δ³⁴S が語る微生物の営み
レドックスシークエンスの最下段に近いのが硫酸還元である。Hossain et al. (2016) は、硫酸イオンの硫黄同位体比 δ³⁴S_SO₄ が 8.3–57.6‰ という広い幅を持つことを見いだした。これは、微生物が硫酸を還元する際に軽い硫黄(³²S)を優先的に使うため、残った硫酸に重い硫黄(³⁴S)が濃縮する——という同位体分別の証拠である。つまり、この地下水では硫黄がレドックス循環を受けている。
さらに、生じた硫化物イオンと溶存鉄(II)が出会えば、ヒ素は硫化物として共沈し、逆に水から除かれる可能性もある。ただし論文は、この共沈の直接証拠は得られていないとし、あくまで示唆にとどめている。本記事も同じ姿勢で、「そういう可能性がある」という所までとする。
硫化物の酸化(黄鉄鉱 → 硫酸・酸性水)と、その逆の世界は PHREEQC をゼロから始める #6:黄鉄鉱の酸化とAMD で扱っている。δ³⁴S が語る硫黄循環の舞台裏である。
高ヒ素の三条件
ここまでを束ねると、Hossain et al. (2016) が結論づけた高ヒ素地下水の三条件が、機構として腑に落ちる。
- 高pH — 鉄酸化物表面の正電荷を下げ、ヒ素(陰イオン)を脱着しやすくする(#12 のフッ素と共通)。
- 還元的(anoxic) — レドックスシークエンスが鉄還元の段に達し、鉄酸化物ごとヒ素を溶かす。
- 新しい堆積物での停滞 — 有明粘土層のような地質的に新しい(堆積してまもない)地層は、堆積後に地下水で十分に洗い流されておらず、堆積当時のヒ素を鉄酸化物に吸着したまま残している。そこに地下水が停滞し、長い滞留時間をかけて反応が進む。
ここで「新しい」は地層の地質年代(堆積してまもない)を指し、その中を流れる地下水の滞留時間が長い=“古い”こととは別物である点に注意したい。①②は「時間をかけた水」の性質、③は「まだ洗い流されていない新しい地層」という器の条件——いずれも、水が長くとどまる停滞域でこそ重なる。ヒ素濃度もまた、フッ素と同じく、地下水がどれだけ長く旅をし、どれだけ還元が進んだかの記録なのである。
まとめ
- 熊本の一部の地下水では、人為汚染ではなく天然の還元反応で、ヒ素が飲料水基準を超えて溶け出す。
- 機構は レドックスシークエンスで理解できる。有機物の分解が O₂ → NO₃ → Mn → Fe → SO₄ の順に受容体を消費し、鉄酸化物が溶ける段でヒ素が放出される。だから 高ヒ素 = 低NO₃ である。
- ヒ素は pe(≒Eh)に応じて砒酸 → 亜砒酸へ顔を変え、還元的なほど移動しやすい亜砒酸が優勢になる。
- 高pH・還元・停滞(まだ洗い流されていない新しい地層)の三条件が重なる停滞域に、高ヒ素水は集中する。
- これら「順序・化学種・放出」は、いずれも PHREEQC で再現できる。
毒の混入ではなく、時間と還元が動かす天然のヒ素。フッ素(#12)と同じく、データと地球化学で読み解ける現象である。
#12・#13 と繰り返し現れた「滞留時間の長い停滞域」。では、その”年齢”はどう測るのか。次回は安定同位体(δ¹⁸O・δD)と天水線で涵養源を、トリチウム・⁸⁵Kr で地下水の年齢を読む。熊本や霧島のデータを題材に、「水の時間」を測る道具を扱う。
参考文献
- Hossain, S., Hosono, T., Ide, K., Matsunaga, M., Shimada, J. (2016) Redox processes and occurrence of arsenic in a volcanic aquifer system of Kumamoto Area, Japan. Environmental Earth Sciences, 75:740.
- Appelo, C.A.J. & Postma, D. (2005) Geochemistry, Groundwater and Pollution, 2nd ed. Balkema.
- Smedley, P.L. & Kinniburgh, D.G. (2002) A review of the source, behaviour and distribution of arsenic in natural waters. Applied Geochemistry, 17, 517–568.
- Dzombak, D.A. & Morel, F.M.M. (1990) Surface Complexation Modeling: Hydrous Ferric Oxide. Wiley.
- Parkhurst, D.L. & Appelo, C.A.J. (2013) Description of input and examples for PHREEQC version 3. U.S. Geological Survey Techniques and Methods, book 6, chap. A43.